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パネルディスカッション「江戸後期の京都詩壇」

パネルディスカッション「江戸後期の京都詩壇」

【パネラー】
・全日本漢詩連盟会長 石川忠久
・近畿漢詩連盟会長  大野修作(司会)
・清水寺学芸員    坂井輝久
・佛教大学非常勤講師 新稲法子

大野:今日のテーマ「江戸後期の京都詩壇」ということでいえば、石川先生が先ほど講演された頼山陽はある意味でその中心人物だと思いますが、今日のパネルディスカッションでは少し視点をずらしまして、柏木如亭、中島棕隠、広瀬旭荘といった、頼山陽とはまた別の詩人を通して江戸後期の京都詩壇を見ていきたいと思います。

最初に基調報告をしていただく新稲先生は永観堂に眠る柏木如亭のお墓の発見者です。そして坂井先生は『洛中洛外漢詩紀行』という非常に面白い本を書かれています。私はかつて『広瀬旭荘』という単行本を書いておりますので、その辺をからめながら、三人の詩人を中心に、江戸後期の京都詩壇―これは引いては当時の日本の漢詩壇といってもよいのですが―それを浮かび上がらせたいと思います。

それでは、まず新稲先生から基調報告をお願いします。

新稲:今日は遠方から来られている方も多いということで、旅の楽しみのひとつに食事がありますが、京都の名物をすでに召し上がった方、またこれからという方々に、こちらの版本の写真をご覧いただきたいと思います。祇園の田楽豆腐、加茂の閉甕菜(刻み酢茎)、北山の松蕈、東寺の芋魁(いもがしら)、錦巷(錦市場)の肉糕(かまぼこ)、そして桂川の香魚(鮎)、こういったものがおいしいというのは子供でも知っている、と。また、鯉、鯽(フナ)・鯇(アメ)・鯝(ワタカ)などの川魚は琵琶湖からやってくる、棘鬣(タイ)・比目(ヒラメ)・方頭(アマダイ)・大口(タラ)などの海魚は塩漬けにして若狭湾からやってくる。そのほかに、水菜、蕪菁(かぶら)、腐皮(湯葉)、麪筋(麩)、昆布、糉子(ちまき)、鯧魚(まながつお)、海鰻(はも)など、京都の美味しいものは「僕を更へて数へがたし」つまり、召使いを交替させるぐらい時間をかけても全部は数えきれない、といっています。これはもともと『礼記』に出てくる孔子の言葉なのですが、それをふざけて美味しいものを数えるのに使っているわけです。この本が出版されたのは文政5年(1822年)、200年近く前のことです。現在とは事情が違う点もありますが、多くは現在でも京の名物として思い浮かべるものだと思います。

この本は『詩本草』といいまして、著者は先程名前の挙がった柏木如亭です。この柏木如亭という人物は、ここに来られている方々はご存知かもしれませんが、一般にはあまり知られていません。しかし、如亭には昔から熱狂的なファンが存在します。まずは梁川星巌です。星巌は歳はだいぶ離れていますが、如亭とは「忘年の友」として非常に親しくつきあい、如亭に心酔していました。そのため、如亭の没後にその遺稿を出版するために奔走しました。次に永井荷風ですが、荷風は父・禾原が漢詩人、母が鷲津毅堂の娘ということで漢学の素養があった人で、『詩本草』を「江戸詩人詩話中の白眉」と絶賛しています。また詩人の日夏耿之介は如亭のことを「江戸のボードレール」と呼んでいます。このように如亭の洒脱で洗練された作品というのは、西洋文学を好む人たちと相性がよいのかもしれませんが、仏文学者の生田耕作さんの好んだ詩人のひとりが如亭でした。後で述べますが、生田耕作がはじめた日本文化研究会の方々が如亭の墓を復興されました。

このように一部に熱狂的なファンがいる知る人ぞ知る存在だった如亭が広く知られるようになったのは日本の漢詩についての本が立て続けに出版された1970年代です。富士川英郎の『江戸後期の詩人たち』や中村真一郎の『頼山陽とその時代』、こういった本が1970年代に出版されています。1980年代には中村真一郎が『江戸漢詩』という本を出し非常に話題になりました。私はこの『江戸漢詩』が出たときにちょうど大学生で、ドイツ文学で卒論を書く予定でした。今日、こんなところでお話させていただいていますが、もともとは漢文学に興味はなく、漢文というのは古臭くて説教くさいというイメージがあって、あまり近づきたくない存在だったのですが、中村真一郎が書いた本なら読んでみようかなと思って『江戸漢詩』を読んでみたんですが、読んでみてびっくりしました。江戸の漢詩というのはなんて垢ぬけていてお洒落でカッコいいんだろうと思ったんです。日本の古いもの、まして漢文なんてダサいと思って西洋のものばかり見ていたのが、自分の足元にこういうものがあったなんて、と本当に驚きまして、それで急遽、ドイツ文学から、日本の漢詩で卒論を書くことに変更したんです。今思うと本当に無謀なんですが、それほど衝撃的だったんです。

私のことはさておき、如亭は江戸の人で、今から250年前、小普請方大工棟梁という下級武士の家に生まれました。市河寛斎の江湖詩社に参加し、大窪詩仏や菊地五山などと並んで有名になりました。本来なら家督を継ぐところなんですが、どういう事情があったのか、あるいは詩の神にとりつかれてしまったのか、家職をなげうって旅に出てしまいます。如亭の生きた江戸の後期は漢詩人が地方に巡業といいますか、地方に滞在してそこの名士の世話になって書画をかいたり塾を開いたりして稼ぐということがありました。如亭もそのようなライフスタイルを選んで日本のあちこちを旅しています。如亭の旅は北は越後―如亭は新潟を気に入っていたようですが―から、南は四国まで、広範囲に及んでいます。頼山陽をはじめ同時代の如亭を知る人によると、如亭はいつも最新流行の服を身にまとっていた、いつまでの少年のようだった、あちこちで女性にもてたとか、そういう人物像を記されています。如亭はお酒はほとんど飲めなかったんですが、大変なグルメで先ほどご覧いただいた『詩本草』などは如亭でなければ書けなかった本だといえます。

その如亭はこの京都に二回やってきました。一回目は1807年で40代の頃でした。二回目は最晩年です。如亭は故郷の江戸に帰ることはありませんでした。最晩年に、かつて過ごした京都に戻ってきたのです。如亭が京都のどこに住んでいたかといいますと、黒谷の廃寺を借りていたそうです。しばらくそこに住むんですが、さきほど見た『詩本草』では漢文で美味しいものをいろいろ紹介しているのですが、それぞれの段に、自作の詩をつけています。そこには京都に再びやってきた喜びをうたった詩が記されています。「京城の寓所に還る」という詩です。

京寓還来便当家 京寓還り来って便ち家に当つ
嵐山鴨水旧生涯 嵐山鴨水の旧生涯
老夫不是求官者 老夫は是れ官を求むる者にあらず
祇愛平安城外花 祇だ愛す 平安城外の花

「便ち家に当つ」、ここが我が家、黒谷の家ですね。「嵐山鴨水の旧生涯」、嵐山や鴨川、40代のころ来た思い出がよみがえる。「老夫は是れ官を求むる者にあらず」、自分は就職活動、出世のために京都にやってきたんじゃない、京都できれいな桜でも見ようと思ってやってきたんだと。この「花」というのは普通の花だけではなく、ものを言って動くような花のことも言っているんだと思います。如亭は祇園に馴染みもいたようです。こういう放浪の詩人というのは聞こえはいいですが、実際はなかなか厳しいものがあって、如亭と同じように旅をして詩を作り書画をかいて売るという暮らしをしていた人も、ある程度の年齢になると、儒者としてどこかの藩にかかえられたりして安定した生活に戻っていきます。しかし如亭はどこかの藩の儒者になることもなく、定住して塾を開いて一派をなすこともなく、それどころか江戸にも帰らずに京都で亡くなってしまいます。最晩年の作品に「首夏山中病起」という七言律詩があります。

山窓風日患纔除 山窓の風日患ひわずかに除く
試趁清和出寓居 試みに清和を趁ひて寓居を出づ
細響林間流水遠 細響林間流水遠く
残香蘚上落花余 残香蘚上落花余る
人無作伴従尋句 人の伴と作る無し句を尋ぬるに従せ
杖有扶行不待輿 杖の行を扶くる有り輿を待たず
忽憶江城此時節 忽ち憶ふ 江城此の時節
圧街新樹売松魚 街を圧する新樹松魚を売るを

「山窓の風日患ひわずかに除く 試みに清和を趁ひて寓居を出づ」今日はちょっと体の調子がいいから散歩でもしてみようと。如亭は「水腫」という病―今の病名でなんというのかわかりませんが―をわずらっていて、それが原因で亡くなりますが、そのちょっと前ということになります。「忽ち憶ふ江城此の時節 街を圧する新樹松魚を売るを」江城は江戸の街、最後の句はまさに「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」をイメージさせますが、ああ鰹の季節だなあと、二度と帰ることのなかった江戸のことを思いを馳せています。当時の京都では鰹節はあっても生の鰹は食べられないのでしんみりするシーンですが、このように如亭の作品というのは、非常に繊細で抒情的なんです。家を捨てて旅をしておいしいものを食べて女性と親しんでいる詩を作る、そういう生活の自由を手に入れるために引きうけた孤独を、抑制された表現で詠んでいます。「故郷に帰りたい」とストレートに野暮なことを詠むのではなくて、「ああ鰹の季節か」とつぶやいた、そこにかえって旅人の悲しみというのが凝縮されているように思われます。

如亭は水腫が悪化してからは黒谷から木屋町の仮座敷に移されて、そこで1829年、56歳で亡くなります。わずかな文房具と本しか残さず亡くなったので、友人たちがそれを売ってなんとか埋葬したそうです。その死に方は皆に衝撃を与えたようで、梁川星巌が頼山陽から「そんな生活をしていると如亭みたいな死に方をするぞ」と忠告された手紙が残っていたりします。やっと友達が埋葬してくれて、数年後に小石玄瑞という人が永観堂に墓地を買って正式に埋葬しました。そのお墓というのは、失われて無くなったというふうに、如亭研究の第一人者揖斐高が年譜に書いておられました。私は大坂の人間でして東京の揖斐先生よりは京都に行きやすいものですから、年譜を読んだあと、本当にお墓は失われているのか、あるいはなくなったとしても無縁仏として墓地の片隅にでも積み上げられているんじゃないか、そういう形ででも見ることができないかと思って探しに行きました。永観堂の墓地というのは少し高いところにありまして、崖の下は幼稚園になっています。この崖のところに如亭の墓石がひっくり返って埋もれているのがわかったんです。写真のとおり、かなり大きい立派な墓碑なんです。これが突然なくなったらさすがに気がつくと思うんですが、たぶん誰もお参りする人がいないので倒れてもお寺はそのままにしておいたのではないかなと思います。ともかく如亭の墓があったということで、恩師の黒川洋一先生にお知らせしたら、岩波の雑誌『文学』の巻頭に「柏木如亭の墓」という文章を書いてくださいました。当時私は如亭で卒論を書いたら普通に就職するつもりでしたので、先生は私の名前を伏せて「大坂大学の女子学生」と書かれたんですが、これをきっかけにずるずると漢詩を勉強する方に進んでしまったんです。それまで本の中で読んで、モノクロの本の中の人だった如亭が墓碑を目の前にしたことで、カラフルでヴィヴィッドに目の前に立ち現れたような気がしたんです。如亭が詩にとりつかれたように私は如亭にとりつかれてしまったんだと思います。墓碑は今はちゃんと修復されています。修復したのは、最初のほうのパネルでありました生田耕作が晩年に江戸の漢詩を読んでいた日本文化研究会の皆さんで、今日、隣におられる坂井さんたちが、お金を出し合ってお寺とややこしい交渉をして、1998年に再興されたのでした。坂井さんたちもまた如亭の魅力に取りつかれたのだと思います。

漢詩というのは、この場で言いにくいのですが、一般にはあまりはやっていません。はやっているところでは、自己啓発的といいますか、道徳を説いたり、教訓的な、そういうイメージがありますが、漢文の世界はそれだけではない、如亭のような詩人も存在して、自由と引き換えの孤独を繊細に詠む、そういった作品のように、現在の若い世代の心に響くような作品もたくさんあります。そういう魅力的な作品は、私のように漢文に何の興味もなかった女子学生に人生を踏み誤らせるほどの力があったわけです。漢文にはそういった一面もあるということを今日は申し上げたいと思います。

大野:次は、新稲先生の話にも出てきました如亭の墓を修復した日本文化研究会の主催だった生田耕作先生の教え子である坂井先生にお願いします。

坂井:もうすでに私の名前が何度も出ていて、大変恐縮です。まず、最初にお礼を申し上げたいんですが、文部科学大臣賞を受賞されました山田さん、清水寺を詠んでいただいて大変ありがとうございました。私は清水寺の学芸員をしておりますので、まずお礼を申し上げてから、私の話に入りたいと思います。今、新稲さんがいろいろとおっしゃっていただいて私のことにも触れていただいているんですが、今日、ここに並んでいる中ではおそらく私が一番の門外漢ではないかと思います。そのような者がこのような所にのこのこやってまいりまして、しかもこのように演壇に坐っているというのは実に坐り心地が大変悪くて、実は三日ぐらい前にドタキャンしようかと思っていたくらいです。なぜ私がここに引っ張り出されたのかといいますと、先ほど大野先生が私の紹介の中に掲げられました、この本『洛中洛外漢詩紀行』ですが、確かに私の名前があります。24年前に出版したものでして、四半世紀も前のことでもう時効になっているかなあと思っていたんですが、豈に図らんや、時効になっていなかったということで、非常に恥ずかしい思いをしながら今日はやってきたわけです。といいますのも、この本、24年前、若気の至りで書いたというところもありまして、随分間違いが多い。この間、ちょっと読みかえそうと思ったのですが本当に恥ずかしいと思っています。

それはさておき、この本のおかげで私は今も漢詩って素晴らしいなあという思いが心の中にずっとたゆたっているわけです。そのようなきっかけを与えてくださったのが、先ほど来、名前が出ております生田耕作という私の恩師にあたる方であります。生田耕作と聞いて皆さんどうでしょう、名前をご存知でしょうか。外国文学を読んでおられる方は、ああ、あの方か、と思い浮かべる方もあろうかと思います。仏文学者でしたので、仏文学の翻訳が主な仕事になるわけですが、どんな作品があったかといいますと、ブルトン『シュールレアリスム宣言』、バタイユ『眼球譚』、マンディアルグ『黒い美術館』、サンドラール『世界の果てまで連れてって』-これは映画化もされましたので、あるいは観られた方もあるかもしれません、クノー『地下鉄のザジ』-これも映画になっています、セリーヌ『夜の果てへの旅』などがあります。あるいはひとつくらいは読まれたことがあるかもしれません。私はこの恩師について仏文学を学ぼうということで大学にいたわけですが、その時代、仏文学は一番かっこいいと固く信じて疑わなかったわけです。それがなぜ、こういう本を書くに至ったかということなんですが、仏文学を学ぼうとしたわけですが、残念ながらうまく勉強できませんでしたので、やめまして、一般の会社につとめることになりました。その後も恩師との交流はずっと続いていまして、恩師のもとへ行きますといつも外国文学の話になりまして、話をいろいろ聞くというのが楽しみでありました。ところがある時、友達とふたりで先生のところへうかがうと、招かれた勉強部屋に床の間があり、見慣れない軸が一本かかっています。私は、先生の好きな人の書なんだろうな、ぐらいにしか思っていなかったんですが、友達とふたりで、その前に坐らされて、「君たちこれが読めるか」と言われました。それで読もうとするんですが、全く読めない。我々外国文学に親しんできた者にとって、日本のそういう漢字がずらっと並んでいるものというのが全く読めない。それで先生に「君たちは駄目だな」と言われ、読んで聞かされました。それがこういう詩でした。

檐間燕子結巣成 檐間の燕子は巣を結びて成る
自笑狂遊事遠征 自ら笑ふ 狂遊 遠征を事とするを
岸岸沙鷗知久客 岸岸の沙鷗 久客を知り
楼楼酒保認先生 楼楼の酒保 先生を認む
人看新樹非無感 人 新樹を看る 感無きに非ず
水載落花如有情 水 落花を載す 情有るが如し
海上春帰帰未得 海上 春帰れども帰ること未だ得ず
去期幾為別離更 去期 幾くか別離のために更む

ざっと意味を言いますと、「軒先の燕は帰ってきて巣を結んでいる、しかし私は遠くで狂ったように遊んでいる。長く遊んでいるから岸辺の鷗も私を知っているし、飲み屋も私のことを知っている。もうすでに新緑になっている、水にはすでに花が落ちている、けれども私はまだ帰ることができない、帰ろうとおもうが、別れがつらくてなかなか帰れない。」この詩は実は新潟で詠まれたもので、作者は先程、新稲先生が話された柏木如亭なのです。江戸を出て長々と新潟で遊んでなかなか帰れないという、そういう詩です。私たちはその、先生の朗々と読み上げる詩を聞きながら、ぽかーんとなって、どうすることもできない、「何だこれは」という感じに思っていたわけです。大変な驚きでありました。それからしばらくして生田耕作先生が非常に漢詩に詳しいということを知ることになりました。それは先程から話に挙がっている中村真一郎さんと似通ったところがあります。当時の仏文学者、独文学者、そういった人たちがこぞって素晴らしいと認めていたのが、実は江戸後期の漢詩文学だと、そこで初めて私たちは気がついたわけです。のちに生田耕作がなくなりまして私たち弟子が送るかたちになり、その著書、蔵書のほとんどを私が譲り受けることになったんですが、その中のかなりの主力部分が、今日ちょっと持ってまいりましたが、このような中島棕隠の詩集なんです。中島棕隠の詩集はすべて揃えている、それくらいの入れ込みようで、非常に好んでいたわけです。

生田先生が江戸漢詩を好んでいるということがわかってから生田先生を中心にした輪読会を始めることになりました。それが先程名前のあがりました日本文化研究会という大それた名前の会でして、それを二年ほどやりまして、気がついたのは京都にはたくさんそういう詩人がいて、地域に根差したような、名所旧跡を詠むようなそういう詩が非常にたくさんある、ということです。それで歌に歌枕というのがあるならば、漢詩にも詩枕があってもいいんじゃないかと、大それたことを考えた結果、『洛中洛外漢詩紀行』という本に発展していくことになりました。幸い、ある雑誌に連載しないかというお誘いがありまして、やり始めたわけであります。ただ、生田耕作というのは、外国文学においても、ロマンチックな、ときにはエロチックな文学を好む人でありましたので、選んだ漢詩も大変色っぽい。皆さんは漢詩といいますとまじめだなあと思うかもしれません、私もはじめはそう思っていましたが、違います。中島棕隠の『鴨東四時雑詞』など読むと大変色っぽい、よくこんなこと詠うなあというぐらいのものです。時間がないんですが、一首だけ紹介します。

楼燈無影水声饒 楼燈 影無くして水声饒し
一片残蟾照寂寥 一片の残蟾 寂寥を照らす
少女十三能慣客 少女十三 能く客に慣れ
不辞風露送過橋 風露を辞せず送って橋を過ぐ

皆さん、どうでしょうか、京都に来ますと憧れは祇園あたりで遊ぶことではないかと思います。私も若気の至りで少し遊んだこともありますけれど、あそこで遊ぶと大概時を忘れてふと気がつくと夜中も過ぎている。それから帰っていくんですけれども、鴨東といいますと鴨川より東ですから、だいたい帰る人は西の方へ帰るわけです。当然橋を渡って帰ります。今はそんなに丁寧に舞妓さんが橋まで送ってくれることはないんですけれども、かつては、「少女十三 能く客に慣れ」というふうに、お客さんを上手にもてなして、「風露を辞せず」、夜露の中でもお客さんを橋まで送って情緒纏綿に別れていくという、そういう情景です。まあ色っぽい。こういう詩がずらっと並んでいます。漢詩の楽しみはいろいろあろうかと思いますが、こうふうな漢詩の世界もあるなあと私は思っています。こういうふうにちょっとよからぬ漢詩の楽しみ、こういう人もいるんだということを知っていただければと思います。

大野:どうもありがとうございました。柏木如亭といい、中島棕隠といい、シティボーイの粋人として、彼らが京都に残した文学は最高のものだったと思います。その後、時代が幕末から明治になりますと、こういったシティボーイをこえるような文学というのは出なくなります。私は広瀬旭荘の伝記を少し見てから、明治から現代までの漢詩の状況を考えてみたいと思います。お手元のプリントには村上仏山という漢詩人の詩集に広瀬旭荘が書いた序文を載せていますが、その一番左に「岩谷修」と書いてあります。これは「明治の三筆」といわれた巖谷一六です。その巖谷一六は若いころ京都に出てきて、こういうものを清書して書いていたようです。書くためには有名人の詩集や序文が欲しいわけで広瀬旭荘は幕末当時、相当有名だったらしいのです。でなければ、こういうことはあり得ないわけです。また広瀬旭荘は中国の兪樾という詩人から、「東国詩人の冠」つまり日本第一の詩人と絶賛されています。私は広瀬旭荘について本を書きましたが、当時執筆を中国でおこなっていましたので、中国最大の文人といえる啓功先生にゲラを見せたところ、先生は広瀬旭荘のことを「広瀬=広頼(guang lai)」である、つまり頼山陽をひとまわり大きくしたのが広瀬旭荘だと言うのです。現代の詩人でもそう見なすんだということを知りまして、大変広瀬旭荘が身近になったのです。最後に『梅墩遺稿』の亀谷省軒の序文を見てみたいと思います。「先生の詩才は天授のもので、ほとんど蘇東坡・陸游にせまる。近歳、清人の兪曲園(兪樾)が『東瀛詩選』を著し、推して東国詩人の冠となした。かつ曰く、才気横逸、変幻百出、長編大作は五花八陣の奇を極める。片語単詞もまた雋永味わうべし」要するに、旭荘の詩の特徴は「五花八陣」、華麗で長編が多い。これは日本人の漢詩としては特異中の特異です。京都で頼山陽の次といえば藤井竹外だと思いますが、竹外は絶句ばっかりになってしまいます。もう壮大な詩が作れる人はいなくなってしまいます。明治の初期くらいまではその文化もありましたが、現在それがほとんどありません。みんな、どうしても七言絶句の定型におさまってしまうのですが、これがもっと広がって七言絶句以外にも漢詩を作る人が増えるということを希望してまとめとしたいと思います。石川先生いかがですか。

石川:漢詩の流れは明治になってぱたっと途絶えたわけではありません。明治になると近代的な学校制度ができて、学校で習う人が出てくるわけです。そういう新しい教育の中からも、一番顕著な例は夏目漱石ですが、そういう人も出てくる。ですから、江戸の流れが明治にどのように入ってきて、ずうっと流れてきて、どの辺からおとろえてきたのかということを、もう一度検証する必要があると思います。ちょうど幕末の前に生まれて、明治十年代に学校生活を送りながら活躍した人たちがいます。こういう人たちの足跡もあらためて見る必要がある。たくさんの詩社ができ、たくさんの詩誌ができました。それが明治いっぱいぐらいです。その後大正・昭和とご存知のように尻すぼみになってしまった。この辺の軌跡をきちんと見ないといけないと思います。

坂井:石川先生が明治以降のことに触れられましたので、ひとこと申しあげたいと思うことがあります。私は清水寺につとめておりますが、清水寺の前々貫主の大西良慶という方の日記-まだ非公開になっていますが、それを見る機会がありました。それを見ますと毎年元日に必ず詩を詠んでいます。詩と歌と両方詠んでいます。「元日口占」というかたちで漢詩を詠む場合もありますが、それ以外にも、かつては勅題というのがありまして、今では歌会始めのお題にあたりますが、それに触れて漢詩を詠む、ということを毎年やっていまして、他にも日記の中に漢詩がたくさん出てくるわけです。今日も会場にお坊さんがお見えですが、お坊さんと漢詩というのがずっと非常に密接な関係であったわけなんですが、最近はどうも若いお坊さんで漢詩になじむ方がおられないのが大変残念だなと思います。それで、大西良慶の日記を見てひとつ提案したいと思うことがあります。鎌倉の中期には「御会始」というものが宮中でおこなわれていました。何をするかといいますと、要するに今も続いている和歌の「歌会始」と、管弦の遊び、音楽をする「御遊始」、そしてもう一つが、漢詩を作る「作文始」です。残念ながらこれは室町期にはすたれてしまったようなんですが、ぜひ、もう一度日本の伝統をふりかえって、作文始を復活してほしい。この漢詩連盟がぜひ復活させてほしいなと思います。

新稲:すいません、一言だけ。さっきの詩本草の続きのところで、京都で一番おいしいものとして如亭は何を挙げているかというと、茶碗蒸しと言っています。茶碗蒸しに匹敵するのは江戸の蒲焼きしかないと言っていますので、ぜひ、茶碗蒸しを召し上がってください。

大野:どうもありがとうございました。全日本漢詩連盟が作文始復活の起点となることを念願いたしまして、今日のパネルディスカッションを終えたいと思います。どうもありがとうございました。