近畿漢詩連盟 - 近畿の力で漢詩を未来へ -

会長あいさつ

会長あいさつ

 近畿漢詩連盟会長の大野です。会長を引き受けることにしましたのも、私が京大時代の主任教授の小川環樹(注1)先生は漢詩を作られ、しかも書も善くされました。兄の湯川秀樹(注2)、貝塚茂樹(注3)先生も皆な漢詩に造詣が深く、書を善くされました。三兄弟そろって山本竟山(注4)に習っていたことを聞いていて、学問をするくらいの人は必ず漢詩も作れなければならないと思っていたからです。

 考えてみますと漢詩は現代の生活の中では隅に追いやられています。ほとんどの人が作れないし、その存在さえ知らない人が増えています。漢詩、漢文に対する素養の低下と最近の日本の国力の低下は比例しているように思えてなりません。国家のリーダーたる人が漢文漢詩の素養を欠くと言うことは、羅針盤のない航海に似ているように思えます。明治維新以後、日本は欧米に範を取ると言うことを国策にしてきましたが、明治の元勲たちにはまだ十分な漢文力がありました。それは近代化を推し進めても、漢文漢詩の広い文化を背後に持っていましたので、混乱に陥らず近代化を推進できた最大の要因と思われます。

 ところが最近の日本の政治家、学者はほとんど漢詩の素養がありません。明治維新以後、欧米、ことに太平洋戦争以後は主に米国に習って、中国文化を捨てていましたので、皮相な文化のみがはびこってしまいました。すなわちビジネスツールとしての英語文化をマスターすればそれで事足れりとする態度です。英語がビジネスツールとしてもてはやされるのは翻訳して、それほどの誤差が出ないと言うことがあります。それは別の見方をすれば浅い歴史文化しか持たないということです。漢詩はそれほど簡単ではありません。それは中華四千年の歴史を背後に持つからです。

 四千年と言っても、正確には甲骨文が作られてからは約三千五百年が漢字が使用されてきた年月ですが、記録された歴史の長さは四千年に及びます。世界史上最も長い文字文化と言えます。それだけ長生きすると言うことは漢字には強靱な生命力があるからで、漢詩はその生命力を涵養するには最も優れた方法として認識されればこそ、科挙において、中心的科目として存在し続けました。隋代から清末まで約千五百年、漢詩は文化の王者として君臨してきました。それは複雑な漢字文化を運用する能力は、その人の人間力をはかる道具として最も優れているという認識があったからです。

 近畿は文運の中心地、優れた漢詩人を日本で最も多く輩出してきた土地です。漢詩を作ることは、文化力、人間力を養うには最適な方法でしょう。現在最も必要とされる人間、それは複雑な世界を読み解き、それを具現化できる人、それは近畿から出ておかしくありません。皆さん、精進して漢詩文化を育ててゆきましょう。

(近畿漢詩連盟設立総会でのあいさつを要約)

注1

中国文学者(1910~93)。京都府京都市出身。京都帝国大学文学部卒業。東北帝国大学講師・同助教授・同教授を経て、1950年、京大教授に就任。1967年からは、吉川幸次郎の後をうけて中国文学科の主任教授となる。中国文学研究に大きな功績をのこすとともに、初心者向けの啓蒙書・訳書も多く手掛けた。

注2

理論物理学者(1907~81)。小川環樹の三兄にあたる。湯川家の婿養子となり湯川姓になった。京都帝国大学理学部卒業。1935年、中間子の存在を予言、のちにπ中間子が実際に発見され、1947年、ノーベル物理学賞を受賞した。1953年、京大基礎物理学研究所初代所長。日本人初のノーベル賞受賞者であり、核兵器廃絶運動にも積極的に関与するなど、科学界をこえて日本の社会・言論界に大きな影響を与えた。「荘子」を愛読するなど漢詩文に造詣が深かったこともよく知られている。

注3

東洋史学者(1904~87)。小川環樹の次兄にあたる。初代桑名市長の貝塚栄之助の養子となり貝塚姓となった。京都帝国大学文学部卒業。東方文化研究所研究員などを経て、1949年、京大人文科学研究所教授・所長となる。文献だけでなく、甲骨文字など出土資料にも着目した研究手法を提唱した。専門の中国古代史のみならず、近現代まで及ぶ中国史全般や日中比較文化など幅広い分野ですぐれた業績を残した。

注4

京都で活躍した書家(1863~1934)。日下部鳴鶴に学び、中国に渡って金石学、古碑法帖などを研究。