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記念講演「頼山陽 情愛の詩」

京都大会記念講演「頼山陽 情愛の詩」

(平成28年9月17日(土) 午後2時~)

全日本漢詩連盟会長 石川忠久

今日、頼山陽の話をする理由はいくつかあります。まずひとつはここ京都で長く暮らし、亡くなった、非常にゆかりが深い方ということ。また、個人的なことになりますが、頼山陽の一番上のお子さんの子孫にあたる頼惟勤さんと長く昵懇にさせていただいたこと。さらに私の家内も広島の幼年学校で頼惟勤さんの祖父にあたる方に教わったということ。このようにいろいろな縁があります。そして何より、皆さんご存知のように頼山陽は日本の漢詩人でナンバーワンであるということです。

今回テーマに選んだ「情愛」ですが、これは言葉の感覚として「愛情」よりは広い。頼山陽はその生涯に情愛の深い詩をたくさん残しています。今日はそのような詩のいくつかを選んでお話しようと思います。

ところで頼山陽というと遠い昔の人という気がするかもしれません。でもこの人がお亡くなりになって百年で実は私が生まれているんです。決して遠い昔の人というわけでありません。

最初の作品は文化10年(1813年)34歳のときのものです。

 家君告暇東遊拉児協来娯待旬余送至る西宮別後賦之志之(家君 暇を告げて東遊す。児協を拉して来る。娯待すること旬余、送って西の宮に至る。別後 之を賦して之を志す)

父執遣吾東 父執 吾をして東せしむ
京城住五年 京城に住むこと五年
西悲闕定省 西悲す 定省を闕くを
空望白雲懸 空しく白雲の懸かるを望む
養病雖有辞 病を養う辞有りと雖も
負恩終靦然 恩に負きて終に靦然
何料父東遊 何ぞ料らんや 父東遊せんとは
孫随未及肩 孫随うて未だ肩に及ばず
  【中略】
児泣結吾韈 児は泣いて吾が韈を結び
父呵勿留連 父は呵す留連するなかれと
泣呵情無二 泣呵 情二なし
回頭海山烟 頭を回らせば海山烟る

家君というのはお父さん、頼春水です。その春水が広島から京都へやって来たときに、山陽の長男の協を連れてきてくれた。親子そろって楽しくすごしたあと、春水と協は広島へ帰っていき、山陽は西宮まで送っていった。最後の句、まだ幼い息子の協が泣きながらわらじを結んでくれる。そこで父である自分はぐずぐずするなと言って息子を叱る。しかし、泣いたり怒ったりしているけれど、「情 二無し」、別れたくないという思いは同じ。「頭を回らせば海山烟る」というのは涙で烟っているわけです。情景を描きながら別れの悲しみをうまく表現している詩です。これは父と子に対する情愛です。

次は江馬細香という女性、これは恋愛関係、一時は結婚も考えたという、そういう女性への詩です。これも文化10年、同じ年の詩です。このとき江馬細香は27歳です。

 臨別寄細香女史(別れに臨み細香女史に寄す)

宿雪漠漠隔謝家  宿雪漠漠 謝家を隔つ
離情欲述路程賖  離情述べんと欲して路程賖かなり
重逢道韞期何処  重ねて道韞に逢う何処をか期せん
洛水春風起桜花  洛水 春風 桜花を起こす

ここで細香のことを中国の有名な才媛、謝道韞(王羲之の長男の嫁)になぞらえています。謝家つまり江馬細香の家に寄って、いよいよ別れになり、思いを述べようとすれば道のりははるか遠い、今度はまたどこで会えるだろうか、洛水つまり京都の鴨川に春風が吹き桜の花が舞う頃がいいなあ、と。山陽と細香は結婚こそしませんでしたが、二人の愛情は生涯続きました。

次は塾生に対する詩。

 示塾生(塾生に示す)

憐我二三子 憐む 我が二三子
負笈向吾依 笈を負うて吾に向かって依るを
紙窓与土壁 紙窓と土壁と
燈火聚唔咿 燈火 聚って唔咿す
【中略】
君輩皆人子 君輩 皆 人の子
豈不憂睽離 豈に睽離を憂えざらんや
爺嬢当此際 爺嬢 此の際に当って
当各説吾兒 当に吾が兒を説くなるべし
已忍愛日意 已に愛日の意を忍ぶ
勿失惜陰時 陰を惜しむの時を失う勿れ

唔咿というのは本を読む声。紙窓というのは障子のこと、土壁というのはむき出しになった土の壁。そういう質素な環境。勉強というのはこういう環境でこそはかどるんです。金殿玉楼のようなところでは勉強にならない。君たちも人の子、故郷にいる家族との別れはつらいだろう、お父さんお母さんも国で待っているだろう、だからこそ怠りなく学びを続けろ、と叱咤しているわけです。これも愛情のひとつです。弟子に対するこまやかな情愛です。

次に文政7年(1824年)、45歳のときの詩。

中秋無月侍母(中秋月無し母に侍す)

不同此夜十三回  此の夜を同にせざること十三回
重得秋風奉一卮  重ねて得たり秋風一卮を奉ずるを
不恨尊前無月色  恨みず尊前月色無きを
免看児子鬢辺糸  看らるを免る 児子鬢辺の糸

お母さんと一緒に仲秋の月を愛でることが十三年もの長い間なかったが、今日はお母さんにお酒をすすめて一緒に飲むことができる。酒樽の前に月は出てこないが、それを恨みには思わない。なぜなら月が照らさないおかげで、自分の白髪をお母さんに見られずにすむ。月が出なくて残念というのは普通ですが、かえってよかった、というわけです。これは洒落ています。一種の機知ですね。

次は、今日取り上げる中で最も情愛のこまやかだと思う作品です。

 哭辰蔵此日春尽(辰蔵を哭す。此の日春尽)

別春又別児  春に別れ又児に別る
此日両傷悲  此の日両つながら傷悲す
春去有来日  春去って来る日有るも
児逝無会期  児逝きて会う期無し
幻華一現暫娯目  幻華一現 暫く目を娯しましむ
造物戯人何獪哉  造物人に戯る何ぞ獪なるかな
明年東郊尋春路  明年東郊 春を尋ぬる路
誰復挈瓢趁爺来  誰か復た瓢を挈え爺を趁い来らん

辰蔵というのは二番目の若い奥さんとの間の最初の子です。最初の四句は五言、後の四句は七言という古詩です。ちょうどこの日が旧暦の三月二十九日。この年は二十九日で三月が終わりだったので、一夜あけると四月。旧暦では四月からは夏に入りますから、この日が春の最後の日で、これを「春尽」といいます。ちょうどその日に息子もなくなった。春と息子と両方いっぺんに別れなければならない。春は去っても来年また来る。ところが子供は亡くなったらもう会うことはない。幻の花のような我が子の短い人生、しばらく親の目を楽しませてくれたが、造物、つまり神様は人にふざけることのなんと狡いことか。来年春、いったい誰が酒の入った瓢箪を持って父のあとを追いかけてくるというのか。この最後の句が素晴らしい。去年も一昨年も、あるいは今年の春も、この幼子は瓢箪を持ってお父さんについて来てくれたのでしょう。それが来年はもうない。幼子を失ったという悲しみをどういう場面で表現するかというのが、詩人のセンスです。この詩は頼山陽の代表作とは言われていませんが、私は非常に高く評価しています。

 全家奉母及叔父遊江州諸勝由志賀越(全家母及び叔父を奉じて江州諸勝に遊ぶ。志賀越えを由う)

奉母閑遊尽挈家  母を奉じての閑遊尽く家を挈う
後先奴婢咲啞啞  後先の奴婢咲うこと啞啞
穉孫同載板輿裡  穉孫 同じく載す 板輿の裡
露面輿窓喚阿爺  面を輿窓に露わして阿爺を喚ぶ

叔父というのはお父さんの弟、杏坪です。お父さんの春水亡きあと、父親代わりになって山陽を指導した、そういう人です。お母さんと叔父さんを奉って、一家全員で遊びにでかける。若い女中たちが後になり先になりして笑いさざめいていろどりを添える。母と同じ籠の中に幼い孫が乗っているが、籠の窓から顔を出して「お父さん」と私を呼んでくれた。従来の詩にはこういう場面を詠んだ詩はありません。なにげない情景描写だけれどもほのぼのとした情愛がここに表れています。

次は一番有名な作品です。昔は教科書に採られていましたよ。

 送母路上短歌(母を送る路上の短歌)

東風迎母来  東風に母を迎えて来り
北風送母還  北風に母を送って還る
来時芳菲路  来る時は芳菲の路
忽為霜雪寒  忽ち霜雪の寒と為る
聞鶏即裹足  鶏を聞いて即ち足を裹み
侍輿足槃跚  輿に侍して足槃跚たり
不言児足疲  児の足の疲るるを言わず
唯計母輿安  唯だ計る母の輿の安からんことを
献母一杯児亦飲  母に一杯を献じて児も亦た飲む
初陽満店霜已乾  初陽 店に満ちて霜已に乾く
五十児有七十母  五十の児 七十の母有り
此福人間得応難  此の福人間得ること応に難かるべし
南去北来人如織  南去北来 人 織るが如きも
誰人如我児母歓  誰人か我が児母の歓に如かん

文政12年(1829年)、山陽は京都に遊びに来たお母さんを広島まで送っていったんです。春風が吹くころにお母さんを迎えたが、今、北風が吹く季節になってお母さんを送っていく。来たときには花が咲いて美しかったが、今は霜と雪の寒さになっている。早朝、鶏が鳴くとすぐに旅支度をして出発し、母親の籠に侍して私の足は疲れてよろめいている。「槃跚」というのは「bansan」と音が揃っていて、こういうのを畳韻語といいます。畳韻語は響きがいいので詩にはよく使われます。息子の私は疲れているけど、疲れているとは言わない。ただ心配するのは母親の籠が安らかであるかどうか。お母さんに一杯のお酒をすすめて自分もまた飲む。一杯というのはお酒ですよ。お茶じゃありません。お茶なら「一碗」といいます。そうこうすると朝日が店いっぱいに満ちて霜ももう乾いた。五十の息子に七十の母がいる、こんな幸せは世の中でめったに得られないことだ。今の時代なら、八十の息子に百の母がいてもおかしくない時代になっているが、この頃は七十まで生きている人は珍しかったわけです。今、たくさんの人が南北に織るように行きかうが、いったい誰に我々母子のような喜びに勝るものがあるだろうか。

いい詩だなあ。今も中学や高校でこの詩を教えるといい。わかりやすいでしょ。難しい言葉はひとつもない。こういうものを漢文の教科書に採らないといけない。

次は最後、いよいよ彼も亡くなります。その死ぬ間際に梁川星巌という詩人がお見舞いにきました。天保3年(1832年)9月17日のことです。頼山陽は23日に亡くなりますから6日前ですね。

與星巖話別(星巌と別れを話す)

燈在黄花夜欲分  燈は黄花に在りて夜分たんと欲す
明朝去蹋信州雲  明朝 去って蹋む 信州の雲
一壺酒竭姑休起  一壺酒竭くとも姑く起つを休めよ
垂死病中還別君  死に垂んとする病中還た君に別る

だんだんともしびも消えかかって夜も真夜中を過ぎた。君は明朝になれば信州の雲を踏む中山道の旅に出るんだなあ。酒がなくなってもしばらくいてくれないか。死にかけている病中の自分には君と別れるのはつらすぎる。こういう詩は作りごとではできませんよ。もう死期を悟ったわけです。九つ若い後輩の星巌に後を託した、そういう気持ちですかね。なお、星巌は別れたあと、中山道ではなく東海道を行き、掛川の宿で山陽の訃報を耳にしました。星巌にその時の詩が残っています。

駆け足でしたが、頼山陽の情愛を漢詩で見るということでお話しました。親、息子、弟子、愛人、母、後輩、こういった周りの人々への情愛が感じられたと思います。